【CROSS OVER Vol.7 青山学院大学 鶴川正也選手】苦しんだ先にたどり着いた自身の「原動力」。
武岡優斗です。元Jリーガーで、現在はセルソースで働いています(僕に関する記事はこちら)。そんな僕が、セルソースと縁のあるアスリートにインタビュ―していく企画「CROSS OVER」。
本企画の第7弾は、青山学院大学陸上競技部に所属している鶴川正也選手。
6月に行われた日本選手権5000mで屋外レースとしては日本人学生歴代最高タイムを記録した鶴川選手。苦しみながらたどりついた自身の「原動力」。等身大の鶴川選手にインタビューしてきました。ぜひ最後までご一読ください。
「楽しい」のはサッカー、「勝てる」のが長距離だった
ーー鶴川選手が長距離ランナーになったきっかけを聞かせてください。
小学校の頃、一番最初に始めたのはサッカーでしたが、地元のマラソン大会で入賞したり優勝することがありました。元々自覚はなかったのですが、次第に「俺、足速いんだ! サッカーより長距離やったほうがいいのかな?」と思うようになりました。
楽しいのはサッカーでしたが得意なのは長距離でしたね。サッカーは今でも好きです。
ーー似たようなセリフは以前インタビューをした若林宏樹選手からも聞きましたね。どのタイミングで陸上に専念されたのですか。
陸上に専念したのは高校に入ってからです。中学3年生まではサッカーを続けましたが、めちゃくちゃ走るサッカー部だったんですよ。日本一走っていた自信がありました。
ーー高校は名門の九州学院高等学校に進まれましたが、進学にあたり周りとの違いや壁などは感じたりしましたか。
中学校のサッカー部の活動が8月に終わり、その後に陸上のジュニアオリンピックに繋がる大会があって出場したのですが、県予選で優勝したんですよ。
何週間か練習したら大会記録で優勝することができ、10月のジュニアオリンピック本番では全国3位になって、「マジか!」と思いました。
なので、自信をもって高校には入学しました。
ーー高校での陸上生活はいかがでしたか。
1年生の時に高校トップクラスの先輩がいました。絶対に勝てるわけもないのですが、毎日がむしゃらに食らいついて練習しました。設定ペースも無視して・・・(笑)。充実した3年間でした。
かっこいいと感じたトップで走る「青学」
ーー青学に入学された経緯を聞かせてください。
小学校6年生の時に初めて箱根駅伝を見て「青学かっこいいな!」と感じました。初優勝の時だと思います。
この選手がかっこいい! とかではなく、青学がトップで走っているのを見てかっこいい! と思ったんですよね。
他の大学さんからお声がけいただくこともありましたが、最初に「この大学に行きたい! このユニフォームを着て走りたい!」と思ったのが青学だったので、進学を決めました。
満ち溢れていた自信とは裏腹な現実
ーー実際に青学に入学してみて感じたことを率直に聞かせてください。
入学するまでは「上手くいく気しかない」「俺が1番強い」「負けるわけがない」といった自信に満ち溢れていました。ただ、入ってみると全然違いました。
入学前の話ですが、高校3年時の全国高校駅伝(12月)が終わった後に、自分の中で張りつめていたものがプチって切れてしまったんです。1~3月の大学入学までは練習がフリーになるのですが、それまで毎日練習していたものが週3~4になって体重も増えてしまい。
入学して1週間で腸脛靱帯炎という故障をしました。陸上はかなり体重が影響するので。
そこから半年で4箇所の故障を繰り返しました。復帰したのはその年の12月でした。
――大学1年目を終えていかがでしたか。
同級生が箱根駅伝で大活躍したこともあり、本当に悔しかったです。
ただ、1年目の4箇所の故障は今のうちに経験出来てよかったなと感じました。故障をして学ぶこともあるので。
心も強くなりますし、知識も増えるので「自分が強くなるチャンスだ!」と捉えました。
強い想いと焦りの闘いが生んだ一瞬の隙
――続いて2年目について聞かせてください。1年目は悔しい思いをし、そこから臨んだ2年目はいかがでしたか。
どこも痛くない状態で2年目を迎えることができました。ただ、大事な夏合宿の際に不注意で捻挫をしてしまいました。この怪我で2年目の駅伝シーズンはダメになりましたね。
そして2年目はまた同期が活躍したので、「地獄」でしたね。初めて「陸上を辞めたい」と感じました。
心身共に整い、ようやく待ち望んだレース
ーー様々なことを経験し悔しい2年間を過ごされましたが、3年目はいかがでしたか。
今年こそ! という想いでした。
故障も経験し知識も付き、筋力的にもバランスが整い、身体としてはかなり良くなっていたんです。ただ、夏合宿の終わりにシンスプリントなってしまい、これを我慢しながらやってしまって。
初めて3大駅伝である出雲駅伝のメンバーに選ばれたのですが、全然ダメでした。順位も1つ落とし「何やってんだろ」と思って。
それが悔しくて、次の駅伝に向けて練習量を増やしたら今後は大腿骨疲労骨折をしてしまいました。この時は本当に陸上を辞めたくなりましたね。
親に電話もしました。「辞めていい? 1回陸上のことを忘れたい」って。毎日寝れなくて、箱根の前なんかは本当に寝れなくて。
箱根駅伝では他の選手の付き添いをやりました。心から応援できたのですが先輩の走り去る姿を見て、(選手として走れていない)自分が情けなくなりました。
また、先輩に襷を渡したのが「一緒に箱根を走ろう」と言っていた後輩で、区間賞を取ったんですよ! 嬉しいのですが、本当に悔しい想いもあって。そんな自分も嫌でした。
自らに問いかけた「自分の原動力」
――思い描いていた3年間ではなかったと思います。実際にどのような想いを抱えて4年目に臨みましたか?
4年生になる前の2月に「どうすればいいんだろう・・・」と自分に問いました。
「なんで青学に入ったのか?」「なんで陸上を始めたのか?」「なんで陸上をしているのか?」。本当に色々考えました。
その結果、「自分が好きだから自分の為に陸上をやってるんだ!」「とにかく青学としての最後の1年を楽しもう!」と思うようになりました。
去年の11月ぐらいに故障から復帰して、今日(インタビューは7月末)まで大きな故障なく走ってこれています。「やっぱり陸上好きだな!」と思っています!
高校時代までは「深みのない強さ」だったと思います。この3年間は苦しかったですが、人として大きく成長しました。速さだけではない「深みのある強さ」になってきたと思います。
ーー従来の学生記録を更新された日本選手権では、どの辺で記録を意識しましたか。
記録は全く狙っていなかったです。
日本最高峰の試合に出れることが幸せで、出るからには「勝ちたい!」と思っていたら、タイムが出たという感じです。
でも、逆に勝てなくてよかったです。「簡単に勝てるわけないな」と、また調子に乗りかけていた自分を元に戻してくれました。
感じた変化
ーー「故障時の治療」について聞かせてください。過去に「PFC-FD™療法」を受けたことがあるとお聞きしましたが、実際に受けられていかがでしたか?
2023年3月末にオーバル中目黒整形外科で、膝の腸脛靱帯炎に対してPFC-FD™療法を受けました。腸脛靱帯炎は高校の時から悩んでいました。
ーーPFC-FD™療法を受けてから変化を感じましたか?
治療をした時は故障していて走っておらず、数週間して復帰した時に変化を感じました。治療をしてからは痛くなってないです。他にも色々な要素があると思いますが、本当によかったです。
憧れた「青学」でのラストイヤーの駅伝、そしてその先へ!
――最後に、鶴川選手の今後の抱負・夢を教えてください。
青学としての最後の1年では3大駅伝全てを走りチームの優勝に貢献したいです。全て区間賞を取りたいですね。
また、来年は世界陸上が東京で開催されるので、5000mの代表になり日本記録を更新したいです。
もう少し先になると思いますが、日本人初の12分台を出したいですね!
インタビュー後記
僕自身、現役時代に怪我に苦しんできた身なので、鶴川選手の気持ちが痛いほどわかりました。
インタビュー中も共感するシーンが多く、他人事には思えないほどでした。武岡は「怪我などのつらい経験」はその人にとって「深み」を与えてくれると思っています。(インタビュー中にそのような話題アリ)
あえてその話を引用してくれた鶴川選手。「深みのある強さ」を手にした鶴川選手の今後がとても楽しみです!