【CROSS OVER Vol.4 横浜F・マリノス 喜田拓也選手】マリノスのエンブレムがないサッカーが想像できない
武岡優斗です。元Jリーガーで、現在はセルソースで働いています(僕に関する記事はこちら)。そんな僕が、セルソースと縁のあるアスリートにインタビュ―していく企画「CROSS OVER」。
本企画の第4弾は、横浜F・マリノスに所属している喜田拓也選手です。
彼は幼少期から横浜F・マリノス一筋。人生のほとんどをF・マリノスと共に過ごしてきた喜田拓也選手に、これまでのサッカー人生とF・マリノスやファン・サポーターへの想いについてインタビューしてきました。かなり濃い内容になってますので、是非最後までご一読ください。
小さい頃から「プロになるもの」と思って生活していた
――まずはじめに、喜田選手がサッカーを始めたきっかけを聞かせてください。
男3兄弟の末っ子で、よくある話ですが兄について行ってサッカーに触れたのがきっかけで、そこからのめり込みました。べたべたな話ですが(笑)。
――幼少期からマリノスのエンブレムを背負うってどんな感覚なのですか。
入ったばかりの時はそこまで深く考えてなかったんですよ。ただ続けていくうちに「クラブの魅力」「カッコよさ」を感じていましたし、トップチームの選手を見て憧れていました。
子供ながらに「このクラブは特別なんだな」と思いながら生活していた記憶があります。この頃からクラブでF・マリノスのエンブレムを背負う喜びを感じていました。
――プライマリー、ジュニアユース、ユースと上がってくる中で、どこでプロを意識し始めましたか。
言い方が難しいのですが、慢心とかではなく「プロになるもの」と思って生活をしていました。Jクラブのいいところですが、常にプロの基準を近くに感じる事ができますし、そこに近づくための逆算をして、今やるべきことを常に意識しながらサッカーを続けていました。
変わるより、変わらずに積み重ねた
――2013年に実際にプロの世界に飛び込んでどうでしたか?錚々たるメンツだったと思いますが。
何もできなかったです。練習にすら入れないこともありました。自分の力が足りていないことも分かっていたので、そこに不満は全くなかったですね。
この年はリーグどころか公式戦の出場がゼロでした。でも、キツイ印象も全然なくて、むしろ素晴らしい時間だったとさえ思えます。
――印象に残っている先輩はいますか。
自分のことをこんなに気にかけてくれるんだっていうぐらい、みんな本当に気にかけてくれたし、本当に凄いメンバーで溢れていたので、みなさんがしてくれたどの話も自分の血肉になりました。
その中でも、俊さん(中村俊輔)は本当に気にかけてくれていましたし、1年目の誰かも分からないような自分にあれほどのスター選手が色んな話をしてくれたんですよ。
自主練時にも「キーボー来いよ!」と声をかけてくれたり、色々なアドバイスをくれたり。それがどれだけ救いになったか、本当に感謝しかありません。その感謝を「結果で伝えたい」と思いましたし、それが今でもモチベーションになってます。今ここにいられるのも「俊さんのおかげ」と思っています。
――3年目に大きく出場機会が増えましたが、自身で感じた変化はありましたか。また手応えはありましたか。
もちろん、エリク(・モンバエルツ)監督に代わったという要素も大きいかもしれませんが、自分が2年間変わらずに積み上げてきたことをうまく出せるようになってきたのかなと思います。
そういう手応えはあった反面、課題も見つかりましたし、ピッチに立ち続ける難しさというのも同時に感じました。それこそ、F・マリノスのメンバーとして試合に出る責任を感じながら地に足を付けてやっていました。
憧れてきたからこそ自分が担うべきという想い
――大きな変化といえば2019年のキャプテン就任ですが、幼少期からずっと見ていたクラブでのキャプテン就任にはどんな思いがありましたか。
背負える人は限られていますし、小さい頃から見て憧れてきたからこそ「自分が担うべき」だと思ってきました。「やっときたか」という表現はおかしいですが、自分がやらなければいけないと思っていました。
この時期はチームとして苦しい時期でもあり、自分がここで必ずチームを良い方向に導きたいと強く思った記憶があります。
――キャプテンに就任した2019年でのリーグ優勝。色々な想いがあったとは思いますが率直にどうでしたか。
格別に嬉しかったです。クラブとしても15年ぶりでしたし、キャプテンになってからの1年だけを切り取っても、本当に覚悟を持ってやっていたので、とにかく長く感じましたね。
監督の変更がもたらした大きな変化
――2018年にチームの戦術が「アタッキングフットボール(*)」に変わる、という大きな変化がありましたが、チームの雰囲気はどうでしたか。さらに結果が出た2019年、選手たちは手応えを感じていましたか。
「*=ボールを保持しながら自分たちからアクションを起こして相手のディフェンスを上回ること。2018年に就任したアンジェ ポステコグルー監督の戦術」
楽しかったですよ!手応え、という面では、実は2018年からありました。ただ結果が出ない事による不安からか、選手の信じる気持ちが本物になりきれなかったというのはあったと思います。
「堅守速攻」「1-0でも勝てるF・マリノス」から「アタッキングフットボール」へ180度変わったわけですから、選手の中に戸惑いが生じるのは自然だと感じていました。その中で、どうやってみんなを「まず信じてやってみよう」という方向に導くかを考えて行動していました。
心と体の助けになった「PFC-FD™」という存在
――少し話は変わりますが、これまでの怪我の経験を教えてください。
人生の中で怪我自体はそこまで多くはないです。最長で昨年の内転筋の肉離れが試合復帰まで2カ月でした。それまでは1カ月以上の離脱はなかったです。
――めちゃめちゃ頑丈ですね(笑)。その中で「PFC-FD™療法」を受けられたと思いますが、どのような怪我だったのでしょうか。
膝の半月板損傷と内転筋肉離れの2か所の治療で投与しました。手術の選択肢も出ていましたが、PFC-FD™療法を受けてから、今では全く問題ないところまで戻っています。回復が凄く早くて驚きました。
こういった手術以外の選択肢があるというのは、やっぱり心の助けにもなったし、実際に体の助けにもなりました。もちろん手術という選択肢も悪くはないですが、僕としては出来るだけメスを入れずに復帰したかったので、その選択肢があることで色んな面で助かりました。
「このエンブレムがないサッカー」が想像できない
――ワンクラブマンは中村憲剛さん(川崎)や曽ヶ端準さん(鹿島)がいますが、「幼少期からワンクラブマンで且つ主将」というのは聞いた事がなく、そんな喜田選手にとって「F・マリノスとはどんな存在か」を聞かせてください。
また難しい質問を(笑)。
こういう世界なので、色んな選択肢がある中でも「サッカー=F・マリノス」というのが自分の中にありました。「サッカーが楽しい」というより「F・マリノスでプレーするのが楽しい」というのが正直な気持ちです。
若い頃、試合に出れていない時に様々なオファーが来ましたが、即答で断っていました。「自分は横浜F・マリノスでプレーしたいからサッカーをやってる」という思いが強かったので。
「このエンブレムがないサッカー」が想像できないですね。移籍が良い悪いではなく、自分にとってここに残る事が「最大のチャレンジ」なんです。
ここにいる事が簡単じゃないからこそ自分に厳しくできる。だからこそチームにとって必要な選手や人間でありたいと思ってます。
――8月26日の横浜ダービーで、横浜F・マリノスが横浜FCに1対4で敗れ、試合後にチーム全員での挨拶が終わり、ロッカールームに引き上げた後、喜田選手は一人でゴール裏に戻られました。応援してくれるサポーターに対して、喜田選手の中にしっかりとした礼儀があるからこその行動だと感じました。その時の想いを、是非本音で訊かせてください。
そういう風に捉えてもらえて有難いです。
結果が出ない時や苦しい時に、「サポーターの方々に話せば許してもらえる」とは思ってないです。中には話す必要がなく、結果で伝える方がいいという人もいるでしょうし、賛否両論あるということも分かっていました。
サポーターの方々は試合前から本当に最高の雰囲気を作ってくれていて、あの試合に限らず、シーズンを通して苦しい時にも本当に支えてもらっていました。「この試合で彼らを喜ばせないといけない」と思っていた中でのあの結果でした。
「これだけ応援してもらったのに負けました。勝負だから仕方ない。また次頑張ろう」と勝手に切り替えて帰っていくのは自分の中で「無し」だったんです。リスペクトし合いながら信頼を築いてきた関係だからこそ無言で帰れないなと思いました。
サポーターの方々に「これだけやってもらって、無言で次に向かうのは違うと思ったから、チームメイトの想いも持ってココに1人で来た。負けたのは力がなかったから全て僕たちの責任だ」ということを伝えました。
サポーターの方々の気持ちも聞いて「選手全員に責任をもって伝える」と対話しました。苦しいけれど、このタイミングでよりチームが強固になれたらこの先に繋がっていくんじゃないかと思ってとった行動でした。自分が考えていたこと全てをここでお話しすることはできませんが、100%チームを想った判断だったということは言えると思います。
――非常に良いお話が聞けました。ありがとうございます!
インタビュー後記
サッカー人生のほとんどを横浜F・マリノスと共に過ごしてきた喜田選手。喜田選手が発する言葉一つひとつが、どれだけF・マリノスの事を想い、愛しているのかが伝わってきました。そしてただでさえ人格者というのが知れ渡っている喜田選手でしたが、実際に触れてみて「ほんまやな(笑)」と痛感しました。